創立100周年を迎えるにあたり、鎌倉市立第二小学校を考える

令和7年(2025)3月19日

早朝から霙混じりの雨が降り。。。寒い一日に。

母校鎌倉市立第二小学校の卒業式でした。午前8時50分までに控室へ。9時15分から式は行われ、77名が卒業しました。一人一人小学校生活を振り返り、またこれから先の希望など述べながら卒業証書を授与されるのを見守りました。

在校生代表としえt、5年生が楽器演奏や6年生との合唱、声の掛け合いなど活躍して、卒業式を盛り上げました。

来年度は、鎌倉市立第二小学校は記念すべき『創立100周年』を迎えます。

これまでの第二小学校の歴史を私が知る時代から私なりに振り返ります。

校舎が中学校と併設していた時代から、それぞれ分離して、第二中学校は西御門へ引っ越し。

講堂の建物一つだけ残して、校舎が全焼、私は一年生に入学して10日目で校舎を失いました。しかも、子ども達が学校にいる時間の授業が始まる前の朝礼時間。私達、一年生はまだ朝礼に参加せず教室にいて先生から色々な指導を受けていた時の出来事。先生たちの誘導で静かに校舎を出て、現在体育館があるところが第3校庭といった広場だったので、その広場にまだ避難訓練もしていない一年生の私達は纏まりました。目の前でボンボン燃える校舎を見ながら泣いて泣いて、ただ燃えるのを暫く見つめていました。そのうち、全員、大塔の宮に移動、心配して迎えに来た母に会いました。

この火事の間、勇気あるご近所の方達が、私達1年生のコートとランドセルを全クラスではありませんでしたが、できるだけ持ち出してくださいました。そして、今、更地になってしまいましたが、大河内先生という、私が卒園した聖心の園幼稚園で英語の先生をされていたお宅に、私達の荷物をとりあえず、避難させてくださったのです。 この時に、十二所の金井先生が、ご自身の職場に向かう途中に火事に気が付いて、この私達の荷物を持ち出す手助けをして下さった、ということが後々わかりました。

校舎、教室を失った私達は、浄妙寺、宝戒寺などをお借りして、教室として暫く使わせて頂きました。校庭の隅にプレハブが建つまでの間は、そうした生活でした。そして、プレハブから新校舎へと火事から復興しました。

卒業して、私の子どもが第二小学校に通う時代には、教育の考え方が変わった影響を強く受けた学校となっていました。鎌倉市内でも最も顕著で色濃いことに驚きました。所謂日教組の影響が非常に強く、私の子ども達が入学する少し前は、先生が校門で子ども達に、そうして考え方を示すビラを撒いていた、ということを知り、なるほど卒業式一つにしても、その在り方が変わっていました。

卒業式は、檀上に上るのではなく、同じ高さで、卒業証書を受け取り、名称も『卒業生を祝う会』という言い方に変わっていました。これはほんの一部の例です。子どもが高学年になってPTAの役をするようになって、教育界の組合と関わることになり苦労しました。

いずれも同じ学校ですが、在校生として、PTAとして、そして地域として関わってきた者の隠すことない率直な感想です。

この時感じたのは、こうして子ども達は、大人の考え方や都合で、その中で育ち方が変えられていくのだ。。。と。決して悪いことばかりではないのでしょうけれど、良い事ばかりでもないことは明らかでした。でも子ども達には比べようもなく、その時を経験していくので、恐ろしささえ感じました。教育の結果は30年後に表れると言います。 さて、その30年後を先生方はどのように見て感想を述べられるのか・・・と考えます。

この度、100周年を迎えるにあたり、子ども達を見つめながら、これからの教育現場に子ども達を中心に学校・地域・家庭を繋いていくために求めたいことを、私なりに改めて考えてみたい、と思うところです!!!